My Dialog

日々の生活の中で心に移りゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくるマイダイアリー

コミュニケーションのときに感じる"偽っている感"の正体

 

振り返ると,僕は小学生のころから,ずっとコミュニケーションに課題と劣等感を感じて生きてきたように思う.僕は(意外と言われることもあるが)すごく内省的なタイプで,親密な人とはなんなくコミュニケーションを取ることができるが,初対面や目上の人とうまくコミュニケーションを取ることができない.

 

その理由は,どこかで,話しても自分のことを理解してくれない,だから距離を”本当の自分”は隠して,そっと距離を置こうと考えているからだろう. また,付き合いの浅い友達との表面的なコミュニケーションでは,いつも”自分を着飾っている感”,また”お互い興味のないムダで冗長な話をしている感”を感じ,それに嫌気を感じているからだろう.

 

いっぽうで,いわゆるビジネスコミュニケーションスキル的なところには,一定の自信がある.自分の意見をある程度論理的に表現することはできるし,ファシリテーションもすごく得意だ.

 

いったい,僕をずっと苦しめている「コミュニケーション能力」とはなんなのか.ただ単に陽キャと盛り上がれることではないと思うし,かといってロジカルに話ができるだけ,でもないと思う.

そこで,今回,「わかりあえないことから」という本を通じて,僕を苦しめているコミュニケーションについて,じっくりと考える時間を取ってみた.

 

冗長性こそが,対話の肝だった

 

僕はずっと思い込みをしていた.心の中では気づいていたけど,不都合な真実だから隠していた.それは,「冗長性こそ,対話の中でとても重要なものである」ということだ.

 

この本では,コミュニケーションを,会話・対話・対論(ディベート)の3つに分類していた.そして,興味深かったのが,この中でもっとも冗長性の高いのは会話ではなく,実は対話である,という主張だ.

 

会話は基本,ある程度価値観の似通った,またはすでに価値観を理解し合った関係性で行われる.故に,冗長性は低い.いっぽう,対話は,文化背景や価値観の違う他者とのコミュニケーションのために,探り探りコミュニケーションをしていく必要があるため,冗長性が高くなる.

 

そして,この冗長性を場面や他者によって変えられる人こそ,コミュニケーションの上手な人である.さらに言えば,この冗長性こそ(コンピュータとは異なる)人間のコミュニケーションにおける特徴であると,本書では述べられていた.

 

この話を聞いて,胸が痛かった.私は,「冗長性は意味がない,くだらないことだ」と自分の頭の中に刷り込んでいたからだ.

 

僕は,そんな考えも悪くない気がする.そんな人間がいたっていいじゃないか.僕と同じような人間は少数だけど,いるし,そういう人たちと深い話ができるだけで,私は幸せだとも思う.

 

でも事実,まさにこれこそコミュニケーション能力なのだけど,自分とは違うタイプの人と社交する必要がある場面は,日常生活で幾度となく訪れる.仕事でも研究でも地域活動でも,どこだってそのような場面には出くわす.

 

そんなときに,「冗長な話は無駄で無価値だから,世間話なんてしたくない」と,しかめっ面をしていたら,まさにコミュ力ゼロ,社交性ゼロの人間になってしまう.そんなのつまらないし,自分にとっても損だ.

 

だから,できる限りでいいから,場面に応じて「冗長性」をコントロールできるように少しずつなっていきたいなと思った.Howがまだ見えないけど,とりあえず問題意識を持てたことが大きい.

 

幸い,この本では,「コミュニケーション能力は教育可能である.後天的に獲得可能である」と言われていたので,地道に頑張ろう.

 

 

 コミュニケーションのときに感じる"偽っている感"の正体

 

もうひとつ,この記事のタイトルにもなっているけど,僕がコミュニケーションに課題を抱えている原因について,考えてみたい.それは,コミュニケーションのときに感じる,”自分を偽っている感”についてだ.

 

僕は,とりわけ初対面の人や,自分とは異なるタイプ・価値観を持つ人とコミュニケーションを取るときに,「自分を偽っている感」を感じる.すなわち,本当の自分ではない,なにか,相手に合わせた偽りの自分を”演じている”ような感覚だ.

 

本書の中で,この”演じること”について,述べている箇所があった.いわく,

 

”人は社会の中でさまざまな役割を演じる.社交の際には,演じることが重要なのである.本当の自分なんてものはなく,場面場面によって演じた何層もの人格の総体が,自分である”

 

とのことだ.

 

うーん,わからなくもない.でも僕は,少なくともどこかに”本当の自分”を感じることがある.そこで別の本にあたった.「キャラ化する/される子どもたち」と,「友だち地獄」である.

 

これらの本では,

1.技術進歩・グローバル化により価値観が多様化し,相互理解が難しくなったために,人々はキャラ化(ラベル化)することによってパーソナリティを単純化し,場面場面によって異なるキャラを演じるようになった.また,キャラ化疲れのために,同質的なコミュニティでのみ関係性を築くようになった

 

2.高度経済成長による成長社会の終わり,社会全体で共有された目的が消失したために,自分の人生に意味やアイデンティティを持てない若者は,他者からの承認に依存するようになり,相手に合わせて仮面をかぶり,偽りの自分を築くことによって関係性が崩れないようにした

 

 

といった内容が書かれていた.

 

胸に手を当てて自分のコミュニケーションを振り返ってみると,どちらも,とても当てはまるものであった.この本の著者は,キャラ化することは悪いことではない,しかし,承認を求めて他者に依存し,そのために相手に合わせて仮面をかぶることは,非常に崩れやすい関係性を作り,かついじめなどにもつながるため,危険であると述べていた.

 

 

僕は,社交の場面において,主体的に”キャラ”をつくるときも確かにある.いっぽうで,「きっと相手は素の,ある意味ダークで異質な自分を理解してくれないだろう」という諦めのもと,”偽りの,相手に合わせた仮面”をかぶっていることも多くあるのだろう.そして,その仮面と自分の中にある自己との差に,ストレスを感じることがあるのだろう.

 

だとすれば,やるべきことは,

  • 異質で,特異的で,ある意味不気味な自分の自己を認めること
  • それを(ラベル化してもいいから)偽ることなくさらけ出す勇気を持つこと
  • 相手の不気味な自己にも共感しようとする姿勢を持つこと

なのかなと思う.

 

より良いコミュニケーションと人間関係のために

  • 不気味で他の人とは違う”自分”の存在を認めること
  • その自分をさらけ出す勇気を持つこと.きちんと説明できるようになること
  • その手段として,”冗長性”を用いてみること
  • 相手の自己も同じように,共感しようとすること

このあたりが,自分のコミュニケーションの改善のために,重要なのかなと感じた.

 

大学時代に,自分のコミュニケーションを見直す機会を持てて,すごく良かった.

 

 

"mind and hand"という精神

 

今週末は、箱根で行われているNCSの合宿に合わせて、オンラインNCS開発メンバーで開発合宿@箱根 & 喜多さん宅をしてきた。

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最近全く企画物のミーティングをやっていなくてファシリテーション能力が極限まで落ちたのと、落ち着いてミーティングできる環境ではなかったため少々MTGを進めるのが難しかったが、なんとか週末にやりたかったことはできたので良かった。
(ミーティングが円滑に進まないとイライラしていまうのは、本当に良くない、w)

 

加えて、帰りにみんなで箱根湯本の天山温泉に行き、本当に久しぶりにお風呂でゆっくりできたのもすごく良かった。

ただお風呂に浸かっただけだが、体も思考もすごく整理できたので、日曜の夜に温泉に行くのは習慣化してもいいかもしれない。


場所がいつもと違ったからか、多くの人と久しぶりに話したからかわからないが、箱根合宿では特に時間は作ってはいないけど、すごく自分のキャリアや価値観について考えることができたと思う。


せっかくなので、帰りの電車の暇なこの時間に、少し思ったことを書き上げておきたいと思う。

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Mind and Hand

 

"mind and hand"というのは、MITの校訓である。思いだけでもなく、技術だけでもなく、思いと技術(カタチに擦る力)両方が大切である、という考えは、いかにも理工系の大学であるMITらしい。

 

www.nordangliaeducation.com


僕は、この考え方が、とても、とても好きだ。

口を動かすやつではなくて、ぺちゃくちゃ喋ってる間にカタチにするために動く人でありたい。
口だけのやつではなくて、しっかりとその思いをカタチにするやつでありたい。

 

口だけならまじで何でも話せる。でも、大人にもなって口だけでカッコつけているのは、本当に、本当に、ダサすぎる。

 

現実で勝負せずに、口だけを動かして、人に想いを言いふらして、そんな自分をかっこいいと思っているのは、本当にただダサすぎる。


だから、しゃべる暇があるなら、開発するなり、アポを取るなり、営業かけるなり、その思いの実現に向けて動ける人でありたい。

熱い思いは持ちつつも、それをひけらかすことなく、行動で示せる人でありたい。

今回の合宿で、改めて自分はこの思いが(相対的に)強いんだなと感じた。



これには、自分でもびっくりした。なぜなら、自分は少し前までは、思いだけは熱いけど、実際にはなにもできてなくて、それにすごく悩んでいたし、そんな自分をひどく嫌っていたから。

これが変わった理由としては、とにかく一種の思想として、このmind and handの精神を脳内に刷り込んだからだろう。やっぱり、思考も矯正できる。

この思想と行動は、自分の想いを実現する上でものすごくプラスになると思うから、継続して強化していきたい。


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持続性としての、事業

同様に、「こんな社会を実現したいんです!」とか言いながら、ほんとに小さなイベントしか開いていないとか、ただのボランティア活動にとどまっているとか、ただの労働者で終わっているとか、そういうのもとてもダサい、と感じる価値観が、自分の中にあることもわかった

本当に社会を変えたいと思うのなら、君のアクションで社会にインパクトを与えたいのなら、もっと大きいことをすべき

もっと本質的で、もっと本当に社会にインパクトを与えることをやるべき

少なくとも僕は、そんな価値観を持っている

やるからには本気で社会にインパクトを与えたい。量的にも質的にも、大きなことをしたい。
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独立でマウントを取る人にはなりたくない

これも、mind_and_handから来る思考なのだけど、

その人がそのキャリア選択をした意図も知らずに、

「え、大企業行くの?」
「え、就職するの?」

みたいな、マウント取るやつには絶対になりたくない。

自分の想いを実現するために、大企業に行く。思考し切って、その上でそれが最善の戦略だと意思決定した上で、就職という選択肢を選ぶ。そこに、他人が反論する権利はあるのだろうか。

独立は目的ではなく、手段である。僕はあくまで、社会にインパクトを与えるために、キャリア選択をしたい。

いっぽうで、それに冷静に反論できるようなキャリア選択の根拠をきちんと自分の中で持っているかどうかは、非常に重要なことだなと思った。 

 

果たして自分は、新卒で今の内定先に入る意思決定を、きちんとした根拠を持って、pros / consを比較した上で、持ててているか。

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ざっと思ったことはそんなところだろうか。自分の中で大切にしたいと思う価値観を、改めて客観的に認識することができて、本当に良かった。

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一流のデザイナーの創作プロセスに触れて


六本木ミッドタウンで開催されていた、マル秘展に行ってきた.

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「インスピレーション(Inspiration)」


この展示会のテーマ。"天から与えられた名案"という意味らしい.


この展示会は、デザイナーはどのようにしてこのInspirationを得ているか、そのプロセスを
デッサンとプロトタイプから明らかにしよう、という試みだったと思う.

いきなりまとめとして、思ったことを書くと,

・デザイナーの活動は、ひとえにInspirationを受けるためにあり, 
・そのプロセスは極めて人間的で代えがたい作業である

 

ということを感じた.

あとに詳しく書くけど、デザイナーの全ての活動は、
ステークホルダーのあいだを仲介する役割としての対象のあるべき関係性(コンセプト)を考え(思考)

・それを具体的なカタチとして表現すること(製作)

 
この2つだけ。

 

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この2つの変数それぞれに置いて、考えらるベストな解(→カタチ)を生み出すために、言葉にし、デッサンを描き、プロトタイプを作り、ユーザー観察をする。その活動をすることで、ベストなアイディアへと繋がる”インスピレーション”が生まれる瞬間をただただ作りにいく。

 
アイディアは”新結合”というけど、組み合わせの量が半端じゃない。そこらへんのビジネスマンがお遊びで組み合わせている組み合わせの数とは桁が違う。量も質も違う。

 
過去の偉人が制作した、大量の良質なデザインと思想、そして制作にかける時間により、ベストなインスピレーションが生まれる。

 
なんというか、すごく人間的な活動で、活動の中に意味があって、とてもいいなと思った。

 

果たして、この一連のプロセスは、機械学習できるのだろうか

 

 以下、展示を観察する中で、心に留まった点をいくつか.

 

デッサン

 
とにかくデッサン.

デザイン思考にもあるように、デザインのアウトプットは1回で成立することは決してなく、何度も何度も作っては修正してを繰り返して、アウトプットが作られる。

 
そして、その試行錯誤が1番しやすいのがデッサン(紙と鉛筆)

 ここで試行錯誤した形跡が、デザインの対象物に問わず、どの作品にも見て取れる。

 

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なんというか、デッサンはもはや絵を描いているというより思考しているに近いんだろうな
あとは、紙とペンで書いているときが、1番インスピレーションが沸きやすい、とかもあるんだろうな

 


そういえば、畑違いだけど、自分のラボ(研究室)の教授も常に紙とペンを持ち歩いていて、また尊敬する安宅さんも常にメモを取れるように、紙とペンを用意していると言っていて、


知的生産をする人、コンセプトデザインをされる人は、みんな紙とペンを愛用するんだなと。自分もこだわろう。


だからこそ、美術科やデザイン科では、デッサンがあれほど大切にされるのか。なるほど。

 自分も試しに、デッサンをはじめてみよう.

 

 

プロトタイピング


そして、デッサンである程度インスピレーションが得られたら、なにかしら簡単に作れて、かつよりリアリティ(3次元性)を感じられる形で、プロトタイピングをする。

 
それは、3Dプリンタだったり、小さな建築物だったり。

この段階から、対象物だけではなく、ヒトがたくさん登場していて面白かった(以下に記述)

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コンセプト

 

デザインは、決して単なる美しさの話ではない. むしろ、美しさよりも大切なものがある.


どの作品も、頭の中にある、言葉になりきらない、イメージ、温度感、思想を、どうにかして目に見える”カタチ”に落とし込もうという葛藤が見て取れる

 

それをカタチにするために、デッサンを書いたり、言葉で要件を定義したり、プロトタイプを作ってみたり

 

展示されているデザイナーのメモの中にも、まずさきにコンセプトを言語化しようとする姿が見て取れた.

 

デザインの出発点はやっぱり頭の中にある具現化しきれないコンセプトなんだなと、そしてデザイン活動とは、その具現化できないコンセプトにさらに磨きをかけ、そしてカタチにするプロセスなんだなと. 本やインタビューでそのことは事前に学んだが、今回の展示会で心から実感することができた.

 

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燃え落ちる日本か、燃え上がる日本か

 

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プロテインとかで有名なブランド、

ザバスは、

 

Source of Atheletic Vitality and Adventious Spirits の略らしい. ブランドイメージを的確に表したロゴになっている.

 

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シンガポール空港のデザインと、デザインコンセプトのメモが記された紙(今回の1番のお気に入りかも)

 

なによりも先に、コンセプトが箇条書きで明確に書かれている. 

 

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高輪ゲートウェイ駅の初期デッサンと完成品.

初期デッサンの雑さがすごい. はじめに頭の中にあるイメージを描き起こしたら, このくらいの粒度と柔らかさになったのだろう.


ヒト


どのプロトタイプにも、ヒトが登場する。

デザインはすべてヒトと対象との関係であるから、ヒトが登場するのだろう。ヒトを描き、ヒトがいる風景を想像し、そこにあるべき対象の姿を再び想像する。その繰り返しの中に、あるべきカタチが見えてくるのか.

 
いっぽう、"環境"や"持続可能性"が問われる現代では、よりマクロな視点;社会や自然といった視点も、デザインに取り込んでいくことがマストになっていくのだろう.

 

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表現力 mind and hand

おそらくどのデザイナーの方も、デザインと、関連する分野に関する、とてつもなく深い思慮と、哲学がある. ただ重要なのは, それをカタチにして示す、職人としての技術も同時に兼ね備えているということ. mind and hand. もしデザイナーを名乗りたいのなら、この後者の技術の側面を決して忘れてはいけない.

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環境 

一気に話が変わるが、そしてものすごく現実的な話になるが.

今回の展示会のディレクターを勤められた田川さんもおっしゃっていたが、田川さんは環境と運のおかげで、これらのデザイナーの方に近づくことができ、デザインエンジニアとしての活動の幅も広がっていった.(もちろん大前提として努力と専門性がある)

 
知識と技術だけではなく、環境の力が偉業を成し遂げるためには大切というのは、どの分野でも同じなんだなと改めて感じた.


自分はどの分野に進みたいのか. そのために、どの環境に潜り込むのか. 1つ大きな仮説検証のスタート点だなと、つくずく感じた.


デザインプロセスだけでなく、自分の人生のあり方についても考えさせられる展示会だった. 人間一人ができることはちっぽけで、どれも時間がかかるから、選択をしないとなにもなし得ないな.



p.s. 

きちんと六本木駅を降りて、散策をしたのはいつぶりだろうか. 記憶では、カタリバの活動で森ビルのGSに行ったとき以来. ということは, 2年前?

六本木は, ブルジョアっぽい人がたくさんいて、街も彼らのために、まるで別空間に来たかのように(切り離されて)整備されていて、

これはこれで文化や個性があっていいな、でも自分は別にここでマンションに住んだり高級ワンちゃんと散歩したい人生を望んではいないなと、改めて感じた. 

でも、綺麗なお姉さんがたくさんいるのだけは羨ましかった.笑

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じっくりと考える時間を作る

 

本と紙とペンを持って、じっくりと、自分の頭で考える時間を作る。


普段の忙しい生活をしていると、自分の頭でじっくりと考える時間をなかなか持てない。


スマホのメディアやSNSで情報収集や著名人の言動をチェックしたりは擦るけれど、

考えているようで考えていない。ただ、音声として聞いて、そのまま受け入れてしまっているというか。

 


なにかを成し遂げる人は、未来が見えている人は、頭の中で膨大な数の事象が体系化されていて、

その結果としての自分の意見を発言している。

そこを汲み取ること抜きに、情報収集に価値は生まれない。

 

そんな表層的な情報収集をしていたら、ただメディアと権威によって作られたトレンドに人生を搾取されるだけの安い人間になってしまう。

 

 

また、ひとつひとつの発言や情報には、発信者の価値判断が含まれている。

安易にそれを是とすると、自分の本当の意見や思いからはズレている、誤った認知が続いてしまうことが多々ある。

 

 

だから、本と紙とペンを持って、じっくりと、自分の頭で考える時間を作る。


週末の1-2時間だけでも、または朝の30分だけでも。

 

外界から少し距離をとって、本と紙とペンだけを持って、深い思考と感情にアクセスして、

ゆっくりと社会と自分をアセスメントする時間を確保する。

 

その時間が、鋭い洞察を生み、決意を生み、価値ある行動を生み出す。


無機的で工業的なモノが, 有機的で人間的な芸術品に化ける瞬間について

 

あるメディアアーティストの個展に行ってきた.
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久しくアート鑑賞には行ってなかったので, また, アートやデザインとはなにか, ということを考えはじめて以降初めての鑑賞だったので, 電車に乗る前からとても心が踊っていた. 

 

はじめに感想を上げると, 今回の個展を通して考えたことは, 

 

  1. サイエンスとアートの関係性. 化学物質や機械, ロボットといった, ある意味無機的なものが, 作品に溶け込み, 有機的なものへと変化し, アート化,するということについて. そのときのなんとも表現し難い美しさと心地よさについて.
  2. 物質とデジタルの差異について. デジタルは詰まるところ波, そして電子, 電磁波であり, 故に波でもあるが物質でもある. 物質は当然物質である. であるならば、デジタルも物質も, ともに身体性の伴う物質的なものと考えられるのに, なぜか僕たちはデジタルに身体性を感じきれない. そのデジタルとフィジカルの間にある, 抜け落ちた身体性とはなにか. それは今後テクノロジーによって創造できるのか.

ということだった. 

 

以下, 保存可能な記録として残すために, ここにいくつか心に残った作品と考えたことを挙げたいと思う.

 

 

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デジタルな映像という時計を,  プロジェクターというデジタルなものではなく, 非常に物質的な, アナログ時計とレンズ, そして投影のためのバックライトによって作り出しているメディア装置.

 

「デジタルな映像を物質的なもので生成する」というコンセプトを, カタチに持っていく姿勢に心躍った.

 

ただ, 装置自体はそこまで大それたものではなく, ありふれたもので作られていたので, 僕でも作れるのは?と思った. アート活動をしてみたい. 

 

 

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プラチナプリント. 鉄の感光性を利用して, 金属プラチナやパラジウムで現像した写真作品.

 

顔を近づけてよく見ると, 綱の繊維感, ねじれ感などのフィジカルさ, 実在する綱を想起させる リアリティさがあった. 

 

考えてみるとそのはずで, デジカメでよく何万画素とかPRされるけど, こちらのプラチナプリントは分子一つひとつが画素になっているわけで, そして分子とかはmol, すなわち10^23(10の23乗)スケールなわけで,故に画素数でいったら圧倒的にこのアナログなプラチナプリントが勝つなと. 


アナログがデジタルには出しきれないリアリティ感を出せるという下剋上感, とてもたまらない.

 

こうして, 感光性を利用した現像という, 非常に化学的なプロセスを経て, 無機的だった分子という存在が写真というアートになっている感, とても心地よく, 興奮した.

 

 

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3枚の写真. 光の差し方と, ぼけ感がすごく幻想的で美しかった.

 

解説で, 場所だけキャプションに書いて、その他の付随情報は敢えて伝えない, 写真から撮影者がどんな心情で, なにを思ってこの瞬間をこのフレームで撮影したか, 考えてみてほしいと言ってて, これは写真の楽しみ方のひとつだなと.思った 

 

2枚目の少女の写真は, 「特に深い意味はなく, ただその一瞬がたまらなく美しかった, だからシャッターを切った」と言っていて, なにかすごく腹落ちした.

 

詰まるところ, アートもデザインも, 深いコンセプトに縛られること無く, ただ「美しかった」「言語化できないけど, ただ綺麗だった」それだけでもいいじゃないかと. 

 

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音と質量. テープが装置によって読み取られ, 音を発していて. そして, 物理的なテープだから, すり減って, 少しずつ音が鈍くなり, 最後は音が消える. 

 

この生きている感, 工業製品という無機質なものなのに寿命があって, 命を削っている感がたまらない. 

 

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コロイド膜をメディア化した装置. 意図は理解しきれていない. けどすごく美しかった. 

 



こちらが, 今回1番印象に残ったもの. デンソーのロボットが写真フィルムをつかもうと, 強化学習している様子. そしてフィルムを手にとり, 投影装置に移し, 絵が写る. 

 

ロボット. 強化学習. 投影装置. すべて, 非常に無機的なものなのに, なぜか生きている感, かわいらしさ, そしてアート性を感じる. 相容れないはずの両者が混ざり合って, シナジーを生んでいる感. 油と水が混ざり合っている感. なんともいえない, はじめての体験だった. 

 

作者は, ロボットが"機械的"という文脈を超えて人間の世界にナチュラルに溶け込む, こんな未来をみているのだなと思った. 

 

その他、写真だけ.

 

渋谷の風景とレンズ

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ブラウン管テレビ
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球というメディア
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アナログなプロジェクター
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以上, 最近は化学科の学生という文脈で, 家でも研究室でもサイエンスの視点から, 構造的に物事を認識し思考することがとても多かったが, 展覧会に来てアートの文脈で作品を見ているときにはまた違った認知と内省ができ, ある意味メディテーション的な側面もあり, かけがえのない時間だなと改めて感じた. 

 

今後も自分の継続的に, 自分の中のアートやデザインといった文脈も追っていきたい. 広げていきたい. 

 

 

p.s.

落合氏が自身の人生観を記述しているボードが載せられていた.

 

曰く, 自分は起業家, 研究者, 教育者..というフレームの中ではそのフレームに最適化しているけど, フレームを取っ払った"一個人"の自分としては, 社会をより善くしたいわけでも, リサーチがしたいわけでも, 下の世代を育てたいわけでもない. ということを述べていた.

 

いつもフレームの中の落合氏を見て, フレームの中の落合氏の言動に影響を受けていたため, 一個人としてはそういった人生観を持っていたのか, 彼が自分の中のどの人格で今話しているか, それをきちんと分別して言動を取り入れる必要があるな, そんなことを思った. 

 

また, 自分も職業や肩書きを全て取っ払って, 裸の一個人として考えたときに, ニヒリズムに満ちた中でどんな生き方をしたいか, 何をして命を削りたいか, 改めて考えるきっかけにもなった.

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ブログを書いていきたいと思います

 

日々感じたこと、学んだことを(なるべく高頻度で、)ブログに書いていきたいと思う。

 

ブロクを目的は、

  • 20代という貴重な時期に見たこと、思ったこと、感じたことをきちんと記録として残しておきたい
  • 書くことで自分の考えを整理したい、整理するための時間を習慣として作りたい

 

の2つ。

 

大学2年のときには、クローズのカタチで、そこそこの頻度でブログや記事を書いていたけど、大学3年からなんかブログで思いだけ先行した記事を書くのはダサいと思って、辞めてしまっていた

 

でも、

  • 自分が尊敬する方々は、みな(少なくとも若いときは)ブログを書いている方が多かった
  • Twitterをやっているけど、考えをまとめるのには適していない
  • 最近、まとまってあるテーマやキャリアについて考える時間をそういえば取れてなかった

 

と思い、また再開することにした。

 

このブログをはてなブログでやっているのは、ひっそりと、自由に、ゆるりと、ブログをやっていければと思っているから。笑

 

その日の出来事について書いたり、その日学んだことについて書いたり、読んだ記事や本について書いたり、キャリアを考察したり、最近気になっている研究や学術分野についてリサーチしたまとめを書いたりしていきたいと思う。

 

 

将来見返したときに、「こんなこと考えていたのか」、「そういえばこんなこと学んだな」と、将来の自分が喜んでくれそうな記事を少しでも書けたら完璧。

 

20代のエモエモの日々を、最大限にエモく書いていきたい!Let's get started!