My Dialog

日々の生活の中で心に移りゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくるマイダイアリー

コミュニケーションのときに感じる"偽っている感"の正体

 

振り返ると,僕は小学生のころから,ずっとコミュニケーションに課題と劣等感を感じて生きてきたように思う.僕は(意外と言われることもあるが)すごく内省的なタイプで,親密な人とはなんなくコミュニケーションを取ることができるが,初対面や目上の人とうまくコミュニケーションを取ることができない.

 

その理由は,どこかで,話しても自分のことを理解してくれない,だから距離を”本当の自分”は隠して,そっと距離を置こうと考えているからだろう. また,付き合いの浅い友達との表面的なコミュニケーションでは,いつも”自分を着飾っている感”,また”お互い興味のないムダで冗長な話をしている感”を感じ,それに嫌気を感じているからだろう.

 

いっぽうで,いわゆるビジネスコミュニケーションスキル的なところには,一定の自信がある.自分の意見をある程度論理的に表現することはできるし,ファシリテーションもすごく得意だ.

 

いったい,僕をずっと苦しめている「コミュニケーション能力」とはなんなのか.ただ単に陽キャと盛り上がれることではないと思うし,かといってロジカルに話ができるだけ,でもないと思う.

そこで,今回,「わかりあえないことから」という本を通じて,僕を苦しめているコミュニケーションについて,じっくりと考える時間を取ってみた.

 

冗長性こそが,対話の肝だった

 

僕はずっと思い込みをしていた.心の中では気づいていたけど,不都合な真実だから隠していた.それは,「冗長性こそ,対話の中でとても重要なものである」ということだ.

 

この本では,コミュニケーションを,会話・対話・対論(ディベート)の3つに分類していた.そして,興味深かったのが,この中でもっとも冗長性の高いのは会話ではなく,実は対話である,という主張だ.

 

会話は基本,ある程度価値観の似通った,またはすでに価値観を理解し合った関係性で行われる.故に,冗長性は低い.いっぽう,対話は,文化背景や価値観の違う他者とのコミュニケーションのために,探り探りコミュニケーションをしていく必要があるため,冗長性が高くなる.

 

そして,この冗長性を場面や他者によって変えられる人こそ,コミュニケーションの上手な人である.さらに言えば,この冗長性こそ(コンピュータとは異なる)人間のコミュニケーションにおける特徴であると,本書では述べられていた.

 

この話を聞いて,胸が痛かった.私は,「冗長性は意味がない,くだらないことだ」と自分の頭の中に刷り込んでいたからだ.

 

僕は,そんな考えも悪くない気がする.そんな人間がいたっていいじゃないか.僕と同じような人間は少数だけど,いるし,そういう人たちと深い話ができるだけで,私は幸せだとも思う.

 

でも事実,まさにこれこそコミュニケーション能力なのだけど,自分とは違うタイプの人と社交する必要がある場面は,日常生活で幾度となく訪れる.仕事でも研究でも地域活動でも,どこだってそのような場面には出くわす.

 

そんなときに,「冗長な話は無駄で無価値だから,世間話なんてしたくない」と,しかめっ面をしていたら,まさにコミュ力ゼロ,社交性ゼロの人間になってしまう.そんなのつまらないし,自分にとっても損だ.

 

だから,できる限りでいいから,場面に応じて「冗長性」をコントロールできるように少しずつなっていきたいなと思った.Howがまだ見えないけど,とりあえず問題意識を持てたことが大きい.

 

幸い,この本では,「コミュニケーション能力は教育可能である.後天的に獲得可能である」と言われていたので,地道に頑張ろう.

 

 

 コミュニケーションのときに感じる"偽っている感"の正体

 

もうひとつ,この記事のタイトルにもなっているけど,僕がコミュニケーションに課題を抱えている原因について,考えてみたい.それは,コミュニケーションのときに感じる,”自分を偽っている感”についてだ.

 

僕は,とりわけ初対面の人や,自分とは異なるタイプ・価値観を持つ人とコミュニケーションを取るときに,「自分を偽っている感」を感じる.すなわち,本当の自分ではない,なにか,相手に合わせた偽りの自分を”演じている”ような感覚だ.

 

本書の中で,この”演じること”について,述べている箇所があった.いわく,

 

”人は社会の中でさまざまな役割を演じる.社交の際には,演じることが重要なのである.本当の自分なんてものはなく,場面場面によって演じた何層もの人格の総体が,自分である”

 

とのことだ.

 

うーん,わからなくもない.でも僕は,少なくともどこかに”本当の自分”を感じることがある.そこで別の本にあたった.「キャラ化する/される子どもたち」と,「友だち地獄」である.

 

これらの本では,

1.技術進歩・グローバル化により価値観が多様化し,相互理解が難しくなったために,人々はキャラ化(ラベル化)することによってパーソナリティを単純化し,場面場面によって異なるキャラを演じるようになった.また,キャラ化疲れのために,同質的なコミュニティでのみ関係性を築くようになった

 

2.高度経済成長による成長社会の終わり,社会全体で共有された目的が消失したために,自分の人生に意味やアイデンティティを持てない若者は,他者からの承認に依存するようになり,相手に合わせて仮面をかぶり,偽りの自分を築くことによって関係性が崩れないようにした

 

 

といった内容が書かれていた.

 

胸に手を当てて自分のコミュニケーションを振り返ってみると,どちらも,とても当てはまるものであった.この本の著者は,キャラ化することは悪いことではない,しかし,承認を求めて他者に依存し,そのために相手に合わせて仮面をかぶることは,非常に崩れやすい関係性を作り,かついじめなどにもつながるため,危険であると述べていた.

 

 

僕は,社交の場面において,主体的に”キャラ”をつくるときも確かにある.いっぽうで,「きっと相手は素の,ある意味ダークで異質な自分を理解してくれないだろう」という諦めのもと,”偽りの,相手に合わせた仮面”をかぶっていることも多くあるのだろう.そして,その仮面と自分の中にある自己との差に,ストレスを感じることがあるのだろう.

 

だとすれば,やるべきことは,

  • 異質で,特異的で,ある意味不気味な自分の自己を認めること
  • それを(ラベル化してもいいから)偽ることなくさらけ出す勇気を持つこと
  • 相手の不気味な自己にも共感しようとする姿勢を持つこと

なのかなと思う.

 

より良いコミュニケーションと人間関係のために

  • 不気味で他の人とは違う”自分”の存在を認めること
  • その自分をさらけ出す勇気を持つこと.きちんと説明できるようになること
  • その手段として,”冗長性”を用いてみること
  • 相手の自己も同じように,共感しようとすること

このあたりが,自分のコミュニケーションの改善のために,重要なのかなと感じた.

 

大学時代に,自分のコミュニケーションを見直す機会を持てて,すごく良かった.